三線・さんしん・サンシン・SANSHIN・蛇皮線
中国福建省の弦楽器「三弦」を原型とする撥弦楽器で、15世紀以降琉球王国(現在の沖縄県および鹿児島県奄美群島)で独自に発展した。日本の三味線の起源の一つ。音を出す胴の部分に蛇皮を張り、胴の尻から棹の先(天部)に向けて3本の弦を張り渡して、弦を弾いて鳴らす。主に単音でメロディ部分を演奏する。助数詞には「本」「棹/竿(さお)」「挺/丁(ちょう)」等を用いる。楽譜は「工工四(くんくんしー)」という独特の記譜法を用いる。
かつては琉球王国領内において、宮中での琉球舞踊に用いる琉球古典音楽や、士族や農民たちが歌う民謡(沖縄民謡や奄美民謡)のために三線を弾いた。現代では古典音楽や民謡の他、ポップスやクラブミュージックなど様々なジャンルで用いられ、演奏するアーティストも沖縄音楽や沖縄文化圏に留まらないが、今日でも沖縄文化(琉球文化)を象徴する存在の一つである。
沖縄県は近代以降移民が盛んで、日本本土に移り住む人やハワイ・ブラジル・ボリビアなどの沖縄人コミュニティーを通して琉球文化圏外にも広まった。日本の音楽界では長く注目されなかったが、第二次世界大戦前に「安里屋ユンタ」(1934年録音、歌詞は日本語標準語の「新民謡」)がラジオ放送で人気を博したり、1970年代に竹中労らが沖縄音楽を紹介したりした後、1990年代の「沖縄ブーム」の到来により全国的に知られるようになった。三線を前面に押し出した楽曲として初めてのミリオンセラーはロックバンド・THE BOOMの「島唄」(1992年全国発売)である。
沖縄県では一般に「さんしん」「しゃみせん」という。奄美群島においては「三味線」「蛇皮線」「ジャミセン」という。「さんしん」という呼称については、起源である三弦との関係が指摘される。三弦は福建語でsamhian(サムヒエン)、北京官話ではsanxian(サンシエン)と読む。山内盛彬はサンセン(三線)からサミセンへ変化していったという説を唱えている。三線の胴の太鼓部分に蛇の皮を張るため、三味線(猫や犬の皮を張る)と区別するためにジャビセン(蛇皮線)やジャミセン(蛇味線)と広く呼ばれていた。
小さな島が点在するこの地域では島ごとに方言が大きく異なるため数多くの異称があるが、統一名称として「三線(サンシン)」の言葉が広く使われている。
琉球処分後の明治時代、沖縄の伝統的な地名・人名を「日本風に」2文字で表記する方法が流行した(汀志良次→汀良、古波蔵→古蔵、神里原→神原、など)、三味線の「味」を同様に省略して三線という呼称になったという俗説がある。
三線の歴史は、15世紀以降の沖縄音楽史とほぼそのまま重なる。
中国南部・福建省由来の弦楽器である三弦が直接の起源である。琉球王国は統一(1429年)後、中国大陸や東南アジアとの交易により多くの文物を取り入れていたが、伝承では久米三十六姓帰化(14世紀末)以前にはすでに琉球に持ち込まれていたという。15世紀後半には尚真王が士族の教養のために三弦を奨励しており、その後日本でいう永禄年間初頭(1558年または1559年)に泉州(今の大阪府南部)堺へと伝わり、日本本土の三味線の起源となった。
福建省の三弦は部位・構造・素材のいずれも三線とほぼ同じものだが、三線の方が棹が短く、胴は平べったく変化した。
17世紀初頭には琉球王国が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、清から訪れる冊封使の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である踊奉行の玉城朝薫が1719年、能や歌舞伎など日本の芸能を参考にした組踊を創始し、三線・島太鼓・胡弓といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。日本の芸能が取り入れられた背景には、日本文化への造詣が深かった王国摂政・羽地朝秀(任期1666年-1673年)の影響が伺える。
王国時代は貴族や士族といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、漆塗りの箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に床の間に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、芭蕉の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して毛遊び(もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。
那覇の辻・仲島などの遊郭では芸妓・遊女が座敷芸として唄三線を身につけた。
19世紀後半、琉球処分を経て日本の施政下に入った明治時代以降には、さまざまな流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。
第二次世界大戦末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ、多くの三線が被害を受けた。製作後250年を経た三線や琉球国王所有の三線の他、「開鐘(ケージョー)」と総称される名器のうち数丁も永遠に失われた。
第二次世界大戦後、沖縄はアメリカ軍の統治下におかれた。米軍基地内のバーやコザの繁華街などではアメリカ兵相手に三線によるライブが盛んに催された。基地に流れていたアメリカのヒット曲を聞きかじって三線でコピーした登川誠仁の『ペストパーキンママ』(1948年。原曲はアル・デクスター『ピストル・パッキン・ママ』)などは当時の沖縄の世相を反映している。戦後は沖縄大衆演劇を中心に復興し、古典や民謡の各流派も大会を開催している。日本の民謡や歌謡曲の節回しを取り入れた曲やポップミュージックの曲の中にも三線が採り入れられるようになったが、影響は沖縄文化圏に留まっていた。
ボリビアに移民した沖縄県出身地の街・オキナワ移住区(コロニア・オキナワ)やハワイ・ブラジルの沖縄系日系人コミュニティでは三線が彼らのアイデンティティを示すアイコンとなっている。
1972年に沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還された後、知名定男率いるネーネーズやりんけんバンドなど一部は日本本土の音楽シーンでも活躍したが、三線や沖縄音楽が本格的に知られるようになるのは1990年代の沖縄ブーム以降である。1992年には山梨県出身の宮沢和史らのバンド・THE BOOMが三線を全面に押し出した琉球音階のポップス曲『島唄』を発表し、150万枚に迫る大ヒットとなった。1999年公開の映画『ナビィの恋』は沖縄をモチーフとした映画としては異例のヒットを記録し、2001年に放映されたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』で沖縄ブームが不動となったことで、趣味として三線を始めたり沖縄音楽に親しむことが沖縄文化圏以外においても一般的となった。三線は生産量が増え、初心者向けのセットや教本なども多数発売されるようになった。一方で三線の素材として理想的とされる黒檀は手に入りにくくなって価格が高騰し、質の悪い素材を塗装でごまかした粗悪品も存在する。
2010年3月、沖縄県内の三線職人の有志が集い、三線製作の技術向上と地域ブランド化・後進の育成・品質の保全を目的とした沖縄県三線製作事業協同組合が発足した。
現在、三線は沖縄県伝統工芸に指定され、7名の工芸士が認定されている。鹿児島県では伝統工芸品(奄美地方)に指定されている。
沖縄三線と奄美三線では形状が異なる。本土の三味線の影響をより強く受けた奄美三線は全体的に大きい。
沖縄三線は棹の形状から7種類の型(かた)に分類される。それぞれの型の元となった三線が存在し、名称は元となった三線の製作者の名を冠している。現在製作されている三線はすべてそれらの複製である。かつては形状の差異についての認識は曖昧だったが、琉球三線楽器保存育成会らが定義を整理した。そのため以前は、例えば天は真壁型で鳩胸は与那城型といった折衷型の三線も多く出回っていた。近年では又吉真栄による「マテーシ千鳥」や「マテーシ鶴亀」のように、新しい型の棹を製作する試みもなされている。
三線には様々な改良楽器が存在する。
三線の音色と価値はその棹で決まるといわれる。素材としてはカリン、ゆし木、紫檀、縞黒檀(カマゴン)、黒檀などがある。その中でも材質が重くて硬く、年月が経過しても反りや狂いの生じにくい黒檀(黒木=クルチ)が珍重されている。三線の棹として現在最高級とされるのは八重山産の黒檀(八重山黒木=ヤイマクルチ)である(希少なために高価になっている面もあり、八重山産であれば必ず良い音を保証するという意味ではない)。現在では台湾やフィリピン産の南方黒木(カミゲン)やカマゴンと呼ばれる種類が黒木の代用として多く使われているが、これらも年々出回らなくなってきている。
棹の原木はよく「寝かせて」自然乾燥させ、材質を締める必要がある。良い棹を作るには最低でも5年は寝かせた素材を使う。職人によっては、よく響く棹には黒木を使い、柔らかい音色を求めてあえてゆし木を棹に使うといった工夫も行われる。名高い三線の名器を「開鐘(ケージョー)」と呼ぶが、そのうち富盛開鐘(トムーイケージョー)の棹はゆし木製である。
音色を度外視すれば棹の素材に制限はなく、純金や銀・ガラス・アルミ・樹脂を用いた棹も実際に存在する。
胴の部材には主にイヌマキ(チャーギ)やクスノキ、リュウガンが用いられる。高価な三線にはケヤキ、カリン、黒檀が用いられることもある。廉価品には東南アジア産のゴムノキなども用いられる。この胴部材にインドニシキヘビの蛇皮を張るのが伝統的な三線の胴の製法である。
胴は弦の音を増幅させる場所となる重要部分となる。皮の張り具合(強さ)をみて、音の高い方を表、反対側を裏とする。南風原型や真壁型は小型の胴、知念大工型と与那城型は大型の胴とされてはいるが、違いは曖昧である。
第二次世界大戦直後、アメリカ合衆国による沖縄統治下で物資が乏しかった時代には、コンビーフなどの空き缶を胴に用いたカンカラ三線や、馬の皮、セメント袋、落下傘生地(いずれも米軍の軍用品で、ヤミ市に出回った)を張った三線も存在した。カンカラ三線は戦後の沖縄史を語る文脈では欠かせない存在でもあり、金武村(当時)の日本兵捕虜収容所で作られた楽曲「屋嘉節」などはカンカラ三線で歌うことにこだわる奏者も多い。こうした経緯から、20世紀末頃からは学校教育でもカンカラ三線が社会科や音楽、総合的学習の教材として取り入れられている。
天然の蛇皮はワシントン条約に抵触するため、現在ではビルマニシキヘビやアミメニシキヘビが養殖され、三線に使用されている。1954年(昭和29年)発行の『琉球三味線寶鑑』や戦前の演奏風景を収めた写真からは、ボールパイソンやボア、クサリヘビ科(ハブやマムシが属する毒蛇の仲間)など、大きな厚めの皮が取れる蛇皮が使われていた形跡も伺える。
本張りと呼ばれる蛇皮一枚張りは、薄い皮をいっぱいに張った状態のままでは湿度の微細な変化によって皮が伸縮するため割けるおそれがある。そもそも三線の製法が沖縄県の風土に合わせたものであるため、県外では特に管理が難しい。そのため、管理がしやすい「人工張り(人工皮)」(蛇皮模様のプリント素材を張ったもの)や、プリント素材の上に蛇皮を重ねて張る「強化張り(二重張り)」も一般的である。人工張りは環境の変化に強い反面、高く鋭い音になりやすい特徴がある。奄美群島では徳之島以南などを除き沖縄県と比べて薄い皮を強く張った三線を好んで用いる人も多いが、撥さばきが荘重な傾向のある奄美大島南部では厚い蛇皮をより強く張る事を好む人も多く、また沖永良部島や与論島の南奄美地方の民謡では薄めの皮をやや緩く張るのが好まれるなど、その地域により傾向が異なる。
古謝美佐子のように合皮を積極的に利用する奏者もおり、本土の三味線に比べ合皮への抵抗感は薄い。なお札幌市豊平川さけ科学館にある鮭皮を胴に使用した三線のように、胴の素材を変えた変わり種三線もある。
三線の弦はその名の通り3本である。太い弦(抱えたときに上側)から順に「男絃(ヲゥーヂル)」「中絃(ナカヂル)」「女絃(ミーヂル)」と呼称する。それぞれ三味線の一の糸、二の糸、三の糸に相当する。素材は伝統的には絹糸を撚ったものであったが、音のバランスを保ちにくく非常に切れやすかったために今日では白色のテトロンかナイロン製の弦が普及している。まれにエナメル製の弦も用いられるが、手触りの悪さから一般的ではない。奄美群島の三線では、黄色く染色した絹製の細い弦「大島弦(ウーシマヂル)」が用いられる。大島弦が黄色なのは、かつて音に張りを与えるため弦に卵黄を塗った名残である。
ティーガーとは「手皮」の琉球語読み。胴の周りにつける装飾的な胴巻きのこと。以前は家紋をあしらったシンプルなものが多かったが、高度経済成長期を経て色や素材、デザインにバリエーションが増し、オリジナル性やファッション性に富んだティーガーがよく見られるようになった。大正時代頃までは、胴の手を乗せるために小さな面積の金襴製・毛皮製のティーガーを巻いたが、現在ではほとんど作られない。
弦の張り具合を調節する糸巻きをカラクイという。調弦により音階を調節する。その形状から、首里・梅・菊・カンプー・歯車型などいくつかのデザインがある。素材は主に黒檀・紫檀・黒柿である。中国の楽器の糸巻きをまねて、牛骨・ラクト材・象牙・プラスチックなどで装飾したものが多い。
駒(ウマ)を胴面に立てると弦が離れ、弾ける状態になる。ウマは前後で微妙に傾斜が異なっており、背側を棹に向けると倒れにくい。素材は竹(モウソウチク)や牛骨が一般的であるが、規定はない。ウマの素材によって音色も変わる。職人の間では竹製の駒を油で揚げる(油煎加工する)と良い駒になるとされる。夜間など音を響かせられないときの練習のために、三線用の消音駒(忍び駒、忍びウマ)も存在する。
義甲(バチ)のこと。標準語で「ツメ」ともいう。バチの材質は水牛の角が高級、上質とされる。普及用にはエナメル製のバチが一般的に市販されている。ただ、他の部位と同じく定義は特にないため、非常に様々な素材のバチが存在する。奄美群島では細長い竹箆状のバチを使用して演奏する。
形状はやや湾曲し、先端は削って使用する。大きさは5〜15センチほどで、大まかな傾向として古典や舞踊の曲には大型のツメを、民謡やポップスには中型や小型を使うことが多い。三線の奏法はダウンストロークが基本となるため、ツメの背(下側)は丸みを帯びている。「掛け音」(アップストローク)の際には文字通り先端を弦に「掛けて」音を出す形になる。
必ずツメを使うというわけではなく、自分の人差し指の爪で「爪弾く」ことも多い。よなは徹など爪弾くスタイルにこだわる奏者もいる。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。
通常、棹の表面は黒く漆塗りされるが、近年ではウレタンの吹き付け塗装が主流。黒木や花梨といった用材で棹を作製する場合には、その木目や色合いを生かすために春慶塗り(スンチーヌイ)と呼ばれる透明の漆塗りを施すことが多い。また、奄美群島では塗りを施さない地のままの棹を好む人も多い。
18世紀の中期頃。良く鳴り響く三線を明け方に突く鐘の音(開静鐘)に例えて開鐘と呼んだ。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。尚家に伝わる三線の中でも非常に良い品とされていた三線は俗に「五開鐘」や「十開鐘」と呼ばれていたが、それがどの三線だったのかは文献によって諸説有る。他に開鐘に準ずる三線として十数挺あり、戦後はこれらの準開鐘も含めて開鐘と呼んでいる。五開鐘のなかでも最高峰と言われていた盛島(盛嶋)開鐘は第二次世界大戦により焼失したと伝えられていたが、戦後、尚家の元へ戻り、1982年に尚裕より沖縄県立博物館に寄贈された。現在は沖縄県立博物館・美術館にて収容、展示されている。ちなみに、沖縄県立博物館・美術館では盛島開鐘の心の部分に「盛嶋開鐘」という記載がされているため「盛島」ではなく「盛嶋」という表記を使用している。ただし、戦後、長いあいだ行方不明だった点を考慮すると、後から作為的に手を加えられた可能性や、その真偽について今なお憶測が絶えない。開鐘には属しないが、護佐丸が愛用した三線と言われている泊綾爪や続面、勝連虎毛、鴨口与那城、江戸与那城は三線の名器として知られている。
準開鐘に属するもの
沖縄県では基本的に撥を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれるが、奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では本土の三味線と異なり、撥で胴を叩かないが、奄美群島では竹製の撥で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺(チブドゥクル)と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した工工四(クンクンシー)と呼ばれる縦書き譜が用いられる。
もっとも一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、弾き語りのときは奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。
三線の演奏には琉球王朝の宮廷音楽として発達した琉球古典音楽と、庶民の間に歌い継がれてきた沖縄民謡、奄美群島の島唄とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者がおもろや自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子(アカインコ)は当て字。現在、赤犬子神社(※ 赤犬子宮 ( アカナクー ) )が 楚辺村 ( そべそん ) にある。
湛水親方こと幸地賢忠が創設した湛水流から、知念績高の弟子であった安冨祖正元と野村安趙が、それぞれの流れを伝える安冨祖流と野村流を興す。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節(ウフブシ)や端節(ファブシ)と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。
主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、毛遊びや祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の流行や地域のうわさ話、替え歌、春歌、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。
音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、琉球民謡協会では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的。